2022年4月14日木曜日

精神の時代ー結びの瞬間

 精神の時代に入ってから精神論的な情報が雪崩の如く入ってくる様になり大変ありがたいことだ

中でもツボったのは、神と一体となるという感覚を始めて分かった話し

人間は死んでも魂は死なない、魂は天之御中主之神様からの分け御霊でありそれが人の心臓に入っているということだそうな

これを聞いた瞬間に、これまでの人は神であるとか天津神と一体となるであるとか、人間の脳は銀河でありその中心には天之御中主之神様がいるとかいう話が立ち所に理解できた

一体となろうと頑張ってもどこかに自分という分離意識があり一体となれなかったのだが

そもそもが天之御中主之神様の分け御霊が私という魂であるという紛れもない事実を理解することで私は即ち神であるという境地を理解する結びが起きた

祓い、鎮魂の修行の先にしか神と一体となる道がないのだとすれば今掴んだ一体というのは違うものなのかはわからないが

確かにそうだということならば、つまり人が天之御中主之神様の分け御霊であるということならば、それを認識したのならばそれは一体となったことと同じではないか

今の私はそれだけで上機嫌でいられる

こんな宝物が100キャラのダイヤとかサファイアという何百億円もしますというようなものよりも遥かに遥かに価値のある宝物

人の手足頭目鼻耳体の全てが天之御中主之神様から与えられた宝物

それが人にはみなただで与えられているんだ

魂が重力に耐えうる体を与えられて地球に遊びに来ているんだってそういうことなんだね

今となってとてもよく分かる

こんな素晴らしいことに気づきながらもまだ消化には時間のかかることもある

それは、最近の悩みとしてはどうしても、人の気に圧倒され上機嫌でいることが阻害され表情が素に戻っていることが多々起きてしまう

秩序を乱し散らかしまくる人が場の気を乱しまくっていてその片付けから入らないとならないとかいうことは日常で

私の気持ちを整理すること、そして、人に対する気持ちを整理することが追いついてない状態

そんな気共に負けてしまいそうな状況を打破する言葉を頂いた

これは私の気持ちを整理する方の話で

それは、「どんなに辛くても自分からいい球を投げる」だ

「どんなに打ちのめされても進むしかない」という鬼滅の有名な台詞と近い

また、「上機嫌の修行」はぎりたもってはいるけれど

「一日四回月に百回ありがとうと言われる」なども完全に忘れていた

昨日は何回言われただろうか

まずは辛くともいい球を投げるということが信じる道だとすれば、嫌な客に上機嫌でありがとうと言うのは間違いなく正しいことだ。

「嘘でも元気でいる」この言葉もここに置いておこう

そして、人に対する気持ちを整理する言霊は今のところは、まず分離意識を無くすことから入るのだろうか

人のエネルギーを吸い取りにくるだけの人っている、場の気を自己中心的気で満たされるのはあっという間

不快に思うということはその人に私の気が負けているのがそもそもの原因だ

上機嫌の気を放出するのだ、私の気でその場を作らないとのまれるばかり

今の段階では人も私も天之御中主之神様の分け御霊であるということを深く落とし込むことが最善なのだろうか

そして、人が何かしていたら、あの人は遊んでるんだなと思うことである、それは皆地球に遊びにきているから

それをどうとかこうとか思う必要は全くなく、つまり、身勝手な人に対する嫌悪とか、なんか気に食わないとか、あいつの方が上手くやっているとかいう妬み、嫌気、悪口の類いに持っていくのは全く意味がない

その放った矢は全て私に返ってくるのだから

それならあいつは遊んでるんだなと微笑ましく見ていることが正しい道なんだろう

ただ、前提としてその人がエネルギーを吸い取り嫌な気を放出しているかどうかは把握する必要がある

そういう人には親切まではする必要があるのかどうか、むしろ近付くのは危険ということもある

妬みは人の中に植え付けられた劣等感と恐怖によるものがあるらしい

それが人にでるが私にでるか、現れた段階で一つ一つ祓い切ることをやっていくしかない

「人は天之御中主之神様の分け御霊である

今世地球に体を与えられ遊びに来ている」

人(魂)の役に立つことがしたい